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“Why Should We Learn Literature? – to Learn, Teach, and Taste”

なぜ大学で文学を学ぶのか? 〜学ぶこと、教えること、味わうことと〜

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フランスの作家 ジャン・ジュネ (Jean Genet 1910-1986)  本取材協力の岑村教授の専門


導入

 大学生には無数の選択肢がある。何をして一人の時間を過ごすか。本、映画、音楽、ゲーム、インターネット上にはコンテンツのミクロコスモスがある。何を学ぶか。法学、経済学、工学、文学、物理学、学際的な領域もある。そして私たちは差し当たり、それをなんとなく選びとっている。絶対にギリシア哲学を学ばなければいけないという使命を帯びている人など、はっきり言って奇人である。

 もちろん何かしら積極的な目標を達成するために勉強している人はいるだろう。しかし大抵の学生はノリで勉強しているわけだ。研究者になりたいとか確固とした目標があるわけではない。単位を取らないと卒業できないから、まあまあ楽しいから勉強する。そのような学生で大学のほとんどは構成されている。そして教員はそのような学生に対して授業をする。その時彼らは何を考えているのだろうか。何を教えたいと思っているのだろうか。そのような疑問からこの記事は出発した。

 今回は慶應義塾大学仏文学専攻の岑村傑教授に話を聞いた。岑村氏は主に20世紀フランスの作家ジャン・ジュネ(Jean Genet 1910-1986)が専門で、他にも刑罰制度の表象について研究を進めるかたわら、文学の教育に長年従事されてきた。研究者かつ教育者という立場から、文学に固有の可能性とは何か、研究の愉しみ、そして文学を教えることに関して、個人的なことまでざっくばらんに語っていただいた。

 特になんとなく文学部に所属している学生、本に限らず文化的なものになんとなく関心がある人に是非読んでいただきたい。

「文学」とその意義とは何か

 「文学」という言葉の境界は非常にあいまいだ。小説や戯曲はもちろんのこと、歴史や心理学なども含まれる多彩なものである。「人間の言語活動に関わるもの」が文学であると岑村氏は語った。そのような意味では、慶應の文学部に心理学専攻や社会学専攻などの様々な専攻があるのも頷ける。そして定義と同様に、文学との関わり方は幅広い。読むこと、作ること、教えること、そして研究することもできる。

 ところで、2021年度直木賞選考では「文学とは『人に希望と喜びを与えるものではないのか』」という意見が登場した(ここでいう「文学」は小説に限った話である)。岑村氏による広範な定義を考えれば、人間が言語活動を続ける限り文学は存在し続けるものであり、その意義を議論すること自体がナンセンスである。

 また岑村氏は、小説の意義は主に2つあると答えた。1つ目は「知る」ということだ。私たちは自分自身の人生だけしか生きることができないが、小説は私たちに他の人生の断片を知ることを可能にする。岑村氏の研究分野であるフランス文学も、今ここにいる私たちが読むことで新たな知見をもたらしてくれる。また、古典文学を読む際にはその年代の周辺知識を知ることが大切になるが、その知識を得ること自体、そしてそれを踏まえて小説を読むことに価値があるのだという。2つ目の意義は、「感動する」ことである。スポーツや他の芸術作品と同様に、小説は読者を純粋に感動させることができる。小説というのは、単一的な価値を有するものではなく、汲み取る人によって価値が異なる「価値の源泉」のようなものだ、と岑村氏は答えた。

 映画や絵画などのさまざまなメディアがある中で、小説の固有性とは何か。その質問に、「時間芸術」である点だと岑村氏は答えた。たとえば絵画を見るときには、一目でその全容が頭に入ってくる。しかし、小説では時間を追ってその内容が理解される。文章が積み重なるという表現方法によって、他のメディアとは異なる形で感性や理性が使われている。多種多様なメディアが存在することで、さまざまな表現のアプローチを選び取ることができ、人間の能力にも多様性が現れるのだ。そういった意味で、小説は他のメディアには劣らない可能性を持っている。

研究のスタイル

 次に文学研究のアプローチについて伺った。岑村氏は主に当時の社会や歴史的な背景を探究するアプローチと、一つの主題、例えば「三面記事」「帰還」「告白」といったものをめぐって複数の作品を読解していくという二つのアプローチで研究を行なっている。

 特に古典作品を読解する際は、一つの言葉が現在とは違う意味を持っていることを岑村氏は強調する。一つの言葉は過去の文化的・歴史的背景が全て詰め込まれたパッケージのようなものであって、その言葉には様々な意味の可能性がある。文化的・歴史的背景を探る文献学的なアプローチは「言葉がそれが書かれた当時に持っていた力を返してあげること」を可能にする。

 作品のみに向き合ってしまうと、ある言葉に対して、それが書かれた時代を考慮せずに、現代の基準で勝手に解釈してしまい、誤読してしまうことがある。文献学的なアプローチと作品のみに向き合うアプローチは互いに矛盾し合うものではない。「歴史的な時間を遡るようなことをしつつ、一つの作品を外に開くことによって作品の中でもつ価値を輝かせる、[作品を]開きながら閉じること」、つまり歴史的な背景を遡って、言葉がもつ力を探ったあとで、もう一度作品それ自体に戻ってくることで、新たな読みが生まれるというポジティブな循環を生み出しているのだ。

研究のスタイル

 文学を正しく読むための技法の内容について伺った。岑村氏は、文学研究をするためには細かい技法が必要になるとしながらも、それ以上にゆっくりと読むという態度の重要性を指摘する。さらに、ゼミの学生に対しても、普段の読み方とは異なる文学の関わり方についてよく話すと語った。例えば、普段小説を楽しむ際には、自分の興味に従い早々と次に読み進めていくが、研究として読む際には、ゆっくり、繰り返し読むという言葉や表現を吟味する態度をすることで、早く読んでいては気づかない新たな発見に繋がる。氏はこのことを、走っていては気づかない凸凹にゆっくりと歩くことで躓くことができるという表現を用いて例えた。

 そして、その態度によって見つけた発見に対して、歴史をさかのぼって時代や作者の背景を調べたり、作者の主張を考えたりするといったことが文学研究なのである。

フランス文学の特徴

 日本人としてフランスの文学を読み、研究している理由は何なのだろうか。岑村氏の回答はシンプルで、フランス文学だから選んだのではなく、研究したくなった作品がフランス文学であったというものだった。つまり、国の比較ではなく、作家毎に個別で考え、ある作家はこの特徴、違う作家はあの特徴という風に考えているのである。

 では、岑村氏が20世紀フランスの作家であるジャン・ジュネを研究する理由はなんだろう。前述の通り、作品とは異なる地域、時代、文化の人々が、その作品を読むことを通して新たな知見を得られるという意味がある。その中でもジュネは、孤児院出身でありながら、施設が与えてくれた環境をよしとせず、脱走を繰り返し、自らの手で生きるために泥棒になるという独特な経験をした。そしてその後小説や戯曲を書き、果てには政治運動にも関心を持つなど通常の世界と関わりながら、通常の世界と異なる生き方をしている。岑村氏はそんな全く自分とは異なる世界に生きるジュネに興味を持ったのだと語った。

教育者としての教授

大学教授は研究者であると同時に大学で授業を行う教育者としての顔もあわせもっている。大学での教育は専門的な研究のための知識や技術を授けることが一つの大きな目的だろう。しかし、大学、特に学部において研究の道に進む者はけっして多くない。大半の学生が研究とはおよそ関連のない仕事に就くのが現状である。文学とは異なる分野に羽ばたいていく学生が、大学で文学を学ぶ意味とはなんだろうか。彼らに対してどのような思いで大学教員は講義やゼミを行っているのか。日々学生と接するひとりの大学教員としての岑村氏の考えをうかがった。

 岑村氏の担当する授業の履修者は仏文学に親しんでいる学生から「レ・ミゼラブル」などの著名な作品をシラバスで見て「なんとなく」関心を抱いた学生たちまで多岐にわたる。また理工学部など、文理問わず履修者がいるそうだ。このように多様な学生が受講する学部の授業では、文学研究の知識や技術を習得することはもちろん、それらを用いて仏文学や新たな「発見」を楽しむことに重きを置くと岑村氏はいう。先述の通り文学は「人間の言語活動に関わるもの」であり、人間のあらゆる営みを含んだ普遍的なものといえる。だから、その文学をじっくり味わう機会を学生の時分に持つことはそれだけでもその人の人生にとって意義深い。さらに、その際に文学研究の知識や技術を用いて読むことは、学生に新しい視点を与え文学の楽しみ方の幅を広げてくれるだろう。

 具体的には、普段の授業では一つの作品を単語のレベルまでじっくりと読むことを意識していると氏はいう。一人で趣味として読書をしているだけではこれほど綿密な読み方をすることはない。文学の学問的知識を学んだうえで単語のレベルに注目して読むことで、作品内の言葉の間に連関があることに気が付くことができる。自ら考えて新しい発見をしようとする姿勢を学ぶことは、大学を卒業した後もあらゆるものを見たり聞いたりするうえで役に立つものである。岑村氏は、この新たな発見をすることの喜びを体験できる授業を行うことを目標にしている。

 文学部の学生たちは、文学を読むこと以外に、卒業論文を書かなければいけない。卒業論文を書く学生の多くにとって文学研究は彼らの就く職業に直接関わらない。しかし論文を書くことを通して、1つの作品について自らの力で考え、向き合うこととなる。これは今後生涯にない贅沢かつ貴重な経験であり、文学と(真摯)に向き合う尊い経験は学生の記憶に確かに残り、その人の一生に関わってくる。卒業生の中には考察した作品の一節を読み返すことが時折の励みになっていると岑村氏に話した者もいる。

 このように学生時代に文学を学んだ経験は、大学を卒業して、たとえ異なる分野で働くようになっても、職業や仕事という枠組みを超えて生きていくための糧となりうると氏は考える。

まとめ

今回、私たちは「研究者と教育者という二つの立場から文学に携わる教授は文学をどのように捉えているのだろうか」という疑問から、岑村氏に話をうかがった。定量的な価値が重視される現代社会において、文学はしばしばその意義を疑問視する声に直面することがある。私たちが上記の疑問を持ったこと自体、そういった現代社会の風潮の反映なのかもしれない。しかし、インタビューでの岑村氏の回答はそんな私たちの疑念を吹き飛ばすものであった。そこには、長年文学に携わっている者としての、時代や場所、社会の枠組みを超えた文学の普遍的な価値へのゆるぎない確信が感じられた。

執筆:三宅晃太郎、宮内昂平、鈴木美緒、渡邉玲、山下和奏

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